2016年9月27日火曜日

さようなら森岡良介

ヤル岡1

夜中の23時30分頃、
勤務先から帰る都営新宿線の中で携帯電話がバイブし始めた。
こんな夜遅くに誰だろう?
メールが届いていたので覗いてみると友人からの一報だった。
内容を読んでみると「ヤル岡引退」……
体に衝撃が走る、
眠くなりかけていた馬喰横山駅での出来事だったが
衝撃が静まると同時に今度は一気に体から力が抜けていった。

彼を初めて見たのは
もうここでは何度も書いてきたが
彼が主将で4番を務めた2002年の夏の甲子園。
彼はこの重責をものともせずにチームを牽引、
高知県勢としては39年ぶりの夏の甲子園優勝、
そして明徳義塾高校には学校創立以来の初優勝をもたらした時。
彼がホームランを打って九死に一生を得た試合は
今でも忘れられない。

その年に中日にドラフト1位で指名され
立浪2世と騒がれるが6年目にして中日を解雇、
それから彼の再会があった。
鳴かず飛ばずの成績が続いたが
2011年からは才能を開花させ、
中日とのCSでは3試合全てでヒットを放ち
CS最終ラウンド進出の立役者にまで上り詰めた。
ただし最も忘れられない彼のプレーは
2013年9月14日の阪神戦、
試合途中で相川とマートンの乱闘騒ぎがあり、
一触即発のムードで迎えた7回裏の1死3塁、
誰もが目を疑うようなスーパープレーのワールドスクイズ。
これには参った、感動の極地であった。
大好きな森岡の最も記憶に残るプレーが
ホームランやサヨナラヒットではなく
このようなプレーだったことは
彼らしくて笑顔にさえしてくれる。
逆に最も苦い思い出だったのが
数年前の開幕戦だったと思うが
サード後方のフライを宮本捕球体勢に入るはずが風に流され
ボールは森岡の方向に行ってしまい、
宮本も森岡も結局は
ボールを捕球できず落球。
森岡だけの責任ではないのに
一斉にこのプレーは非難を浴びてしまい、
それに森岡は萎縮し、押し潰されたのか、
その年の森岡の守備は見てられなかったのも思い出す。

しかし彼はいつも表舞台には出ていたものの
カス端やドン引の陰に隠れ、
脇役の存在として注目された。
控え目なのか、目立つのを恐れていたからなのか?
どうせなら一流の脇役になってもらいたかったが
残念ながら単なる脇役にしかなれなかったのは心残りである。
もう今年の成績を見ていて
今年は特に危ないとは思っていたが
思った以上に寂しい最後となってしまったな。

世界のヤル岡よ、
お前のプレーをまだまだ見たかったが
もう決断してしまたったので残念ではある。
色々と悩み苦しんでいただろうと心配してしまう。
しかしもう終わったことだ
私がどうこう言っても何も変わるわけがない。
ただヤル岡はまだ32歳、
プロ野球人ではもうベテランではあるが
社会人としてはまだまだひよっ子である。
これからはヤクルトの球団職員?
2代目つば九郎?
はたまた守備走塁コーチに大抜擢か?
今後のヤル岡に今まで以上に期待する。

ありがとう森岡良介、
少しだけではあるが森岡のくれた思い出を
大切にし続けたいと思っている。
改めて、ありがとうございました。
そしてお疲れ様でした。


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source : 梅造イズム(東京ヤクルトスワローズブログ)