2015年2月28日土曜日

【野球】元チームメイトが語る「控え投手時代の黒田博樹」

1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/02/27(金) 14:40:56.40 ID:???*.net





カープ投手陣に質問。「黒田博樹に何を聞きたい?」



有名なところでは上原浩治(レッドソックス)。日米の名門球団で確固たる地位を築いた上原だが、

東海大仰星高(大阪)時代は外野手兼控え投手。浪人生活を経て入学した大阪体育大で頭角を現した。

ちなみに高校時代、上原の同期でエースだったのは、こちらも日米の球界でプレイした建山義紀(元日本ハム、阪神など)である。



ロッテ時代にアンダースローで一世を風靡、現在は米独立リーグに所属する渡辺俊介も國學院栃木高時代は控え。

エースは、後に外野手として西武、巨人で活躍した小関竜也だった。

渡辺は3年春の関東大会では背番号10をつけて好投。存在を必死にアピールしていた。



オリックスの守護神・平野佳寿も鳥羽高(京都)時代は控え。チームは3季連続で甲子園に出場、自身も二度ベンチ入りしているが、

故障もあって一度もエースナンバーをつけることはできず、京都産業大学でエースとなりプロ入りを果たす。



彼らは同期に力のある投手がいたり、故障が影響したケースだが、栃木の強豪・佐野日大高で控えだった澤村拓一(巨人)は、

制球面の課題もあって最後の夏の栃木大会は登板なし。力を伸ばしたのはやはり中央大学時代だ。



さらに高校時代、公式戦登板ゼロという信じがたい過去を持っているのは矢貫俊之(日本ハム)。

仙台育英高の3年時にセンバツ準優勝を経験するも、彼がいたのはスタンドの応援席。

その後、進学した常盤大で成長し、社会人への道筋をつけプロまでたどり着いた。



そしてこのたび、メジャーから8年ぶりに広島に復帰した黒田博樹も、上宮高(大阪)時代は一度も背番号1をつけたことがない。



当時の上宮は、全国屈指の選手層を誇る強豪校。

黒田が2年生時、背番号10で登録された1992年の春季近畿大会のメンバー表を見ると、ベンチ入り17名のうち、実に7人が後にプロ野球入りしている。



3年生ではエース・薮田安彦(元ロッテ)の他、一塁の久保孝之(元ダイエー)、遊撃の市原圭(元ダイエー)、中堅の中村豊(元阪神)。

黒田と同じ2年生ではライトの筒井壮(元中日)、背番号13をつけていた西浦克拓(元日本ハム)が後のプロ野球選手である。

また、1学年下は最上級生の時にセンバツ優勝に輝いた世代。エースの座を奪うのは並大抵のことではなかった。



ただ、2年春で背番号10をもらっていたように、黒田は次期エースとして期待されていた。

しかし、新チームになって臨んだ秋は西浦が、3年生の春と夏は溝下進崇(現・大阪ガス投手コーチ)が背番号1を背負った。

高校最後の夏となった大阪大会で黒田は登板なし。上宮は準々決勝で敗れるが、この試合で投げたのも西浦と溝下だった。



当時の新聞や雑誌を読むと、黒田がエースになれない原因について、精神的な弱さを指摘する内容が目立つ。

速球にスライダー、いいボールを持っていたが安定感に乏しく、苦しい展開になると四球を連発……。いったい、黒田はどんな高校球児だったのだろうか。



「いい人。黒田さんの思い出というと、優しくていい人という印象が、まず浮かんできます。

上下関係が厳しい時代でしたが、黒田さんは私ら下級生が困っていると助け船を出してくれた」



そう話してくれたのは、当時、黒田の1学年下だった牧野光将だ。牧野は高校3年のセンバツ、背番号9ながらエース格として奮投し、

センバツ優勝に大きく貢献。その後は近大、大阪ガスで本職である外野手として活躍した。



http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150227-00010001-sportiva-base

webスポルティーバ 2月27日(金)14時0分配信





3: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/02/27(金) 14:42:21.99 ID:???*.net





「投手としての才能は最初から私や西浦よりもクロの方が上でしたよ。初めて間近でスライダーを見た時の印象は強烈でした。

当時、私は3人の中で一番、安定していたから背番号1をもらえたのかもしれませんが、本当はクロがつけてくれたらなぁと思っていたくらい」



同じ投手として惚れ惚れしてしまうボールを黒田は持っていた。

しかし、実質2年半という高校野球の期間は、黒田という投手が安定してその力を発揮するにはあまりにも短すぎた。



「当時から、いずれはプロに入るだろうと思っていましたけど、まさか今のような選手になるとは想像できなかったですね。

だって、今のクロはもう“神”のような存在じゃないですか。本当、僕たちの誇りですよ」(溝下)



「日本球界に復帰するにあたり、かつてお世話になった広島を選ぶ。

黒田さんほどの投手だったら、選ぼうとしたらもっと金銭的に恵まれた球団を選ぶことだってできたはずです。そんな生き方も黒田さんらしいなと思います」(牧野)



10代の頃、思うようなピッチングができず、もがいていた少年が、20年経ち、

日本でも、アメリカでもトップを極める投手に成長する。黒田の野球人生は、「控え投手」の誰もが憧れるサクセスストーリーなのだ。



以上





4: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/ 2015/02/27(金) 14:49:38.85 ID:3cWRBTTM0.net



高校時代控えだったプロ野球選手って単に監督に見る目がないだけだからな

田中みたいに高校の時に捕手から投手に転向して開花する選手もいるわけで

監督が選手にチャンスを与えるかどうかというのが非常に大きい

そして野球に限らず監督や顧問は選手固定してチャンス与えない奴が多すぎる





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source : ベースボールスレッド