2018年8月5日日曜日

PL学園野球部廃部から2年、OB・立浪和義氏の今の思い

引用元: http://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1533005572/

1: 風吹けば名無し 2018/07/31(火) 11:52:52.02 ID:W7MhdMSap
全国屈指の激戦区といわれた大阪では、1960年代から1980年代にかけて、私学七強がその覇を競い合う戦国時代があった。

興国、明星、浪商(現・大体大浪商)、近大附属、北陽(現・関大北陽)、大鉄(現・阪南大高)。そして、全国制覇7度を誇るPL学園──。

 かつて甲子園を沸かせたいずれの私立も、甲子園から遠のいて久しい(2008年夏の近大附が最後)。
没落した七強の象徴が、2年前に野球部が消滅してしまったPL学園だろう。

「僕らの時代は甲子園を勝ち抜くことよりも、大阪を勝ち上がることの方が難しかった」

 そう語るのは、中日ドラゴンズで活躍した立浪和義だ。1978年に“逆転のPL”で初めて夏の全国制覇を果たし、2学年上にあたるKK(桑田真澄、清原和博)が甲子園に連続出場していた当時、PLは黄金期を迎えていた。
一度は大商大堺への進学を決めていた立浪は、高校受験の土壇場で、どこより生存競争の厳しいPLに進路を変更した。

「当時、PLには選ばれた選手しか入れなかった。そのPLに声をかけてもらったのだから、行くしかないな、と。
僕らは桑田さん、清原さんらのチームと比較されていましたから、負けられないというプレッシャーは常にありました」

 立浪が主将となった1987年、PL学園は春夏連覇を達成する。野村弘(弘樹に改名)や橋本清ら、3人の投手を惜しみなく投入し、圧倒的な戦力で日本一を達成した。
複数投手制を敷いた戦いぶりは、現代野球の先駆けといえる。

 その後、KKや立浪、福留孝介らがプロで活躍する一方、PL学園の母体であるPL教団は、野球部の後ろ盾でもあった2代教祖・御木徳近(1982年逝去)という求心力を失い、それに伴う信者の減少によって、野球部への支援は以前より減ってしまう。

 2000年代に入ると、度重なる不祥事の発覚によって、PL野球の背景にある理不尽な先輩・後輩の関係、暴力体質が明るみに出て、信頼は失墜した。
全国の球児のPLに対する憧れが、1990年代以降に台頭してきた大阪桐蔭や履正社に移っていく。

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source : 竜速(りゅうそく)