2016年3月5日土曜日

プロ野球人列伝(3)~河内貴哉。


◇元広島・河内貴哉、16年のプロ生活を語る ドラフト1位から育成、そして1軍へ 週刊ベースボールONLINE 2016年1月16日

 大きな期待を寄せられてドラフト1位で入団した大型左腕。しかし、ユニホームを着た16年で16勝(28敗)、大輪の花を咲かせることはできなかった。フォームを見失った。左肩にメスを入れた。育成選手となってのリハビリは過酷を極めた。1軍のマウンドから離れること4年。苦しみ抜いた末に返り咲いた舞台。その過程がプロ野球人生の勲章となった。

 2015年10月1日、広島から戦力外通告を受けた。河内貴哉は「手術して4年間リハビリをさせてもらい、生涯カープと決めていた。カープで良かったと思える16年でした」と語り、あっさりとユニホームを脱ぐことを決めた。12月1日からは球団広報として、新しい道を歩んでいる。


――スーツ姿もお似合いです。

 高校を出てプロに入って、今まで野球しかしてこなかった身なので、不慣れなことだらけで、不安もたくさんある再出発になっています。でも、すべてが新鮮で充実した日々です。特に12月は、選手たちにイベントやテレビ出演の依頼がすごくたくさんあって、カープ人気にあらためて驚かされました。それだけカープの選手の需要があるんですよね。仕事は大変ですが、やりがいを感じています。

――10月1日に戦力外通告を受けましたが、野球をやめたからできたことはありませんか?

 やめてからやってみたのは、トレーニングをやめたこと(笑)。これまでできなかったことですからね。小学校3年で野球を始めて、こんなに長い時間、体を動かさないことは初めてです。本当に何もやっていないので、体の落ちる早さに驚いています。

――第2の人生を歩むにあたっての準備は、どのように進めたのでしょうか?

 自由契約になったときには仕事も決まっていなかったので、野球界から離れて一般の仕事に就くにあたって不安は大きかったです。パソコンもまったく触ったことがなくて、電源の切り方も分からず、「シャットダウンって何、コンセント抜けばいいんじゃない?」っていうレベル。そんな戸惑いを感じ始めたときに球団から広報職の話をいただきました。パソコンもできないことを話したところ、教室に通わせてくれたんです。いい準備をさせてもらって、感謝しています。

――そもそも、野球をやめることに逡巡はなかったのでしょうか?

 自由契約を受けた時点で続けようという気持ちはまったくありませんでした。体が元気でそれなりの球を投げられていたのなら、まだやりたいと思っていたのかもしれませんが、投げる球を自分自身で厳しいと感じていたので。手術した肩の状態も良くなくて、球速も120キロ中盤しか出なくなっていました。そのことにプロとしてモヤモヤした気持ちがありました。昨年の契約をしてもらったときも、このまま続けていいのかとすごく考えたんです。左肩を手術してからは厳しい状況が続いていたんですけど、あっさりやめられたのは自分の思うように体が動かなかったからですね。

――それほど左肩の状態は芳しくなかった。

 いまも雨が降る日は分かるくらい痛みが出ます。だから、契約を結ばないと言われたときは、解放された感じがありました。もう投げなくていいんだっていう感覚になってしまったんですよね。だから「トライアウトに挑戦します」、なんて思えなかったというのが本音です。


◆過酷なリハビリと復帰後の輝き

 入団9年目の08年に損傷した左肩関節唇の再建手術を受けた。リハビリに4年の月日を費やし、再び1軍のマウンドに立ったのは12年5月23日の福岡ソフトバンク戦(ヤフードーム、当時)。その間、支配下登録を外れ、3ケタの背番号も身にまとった。関節唇の損傷は投手生命を左右する大事。近年でも斉藤和巳(08年手術)、馬原孝浩(12年手術)、斎藤佑樹(手術は回避)、松坂大輔(15年手術)ら、一流投手たちを苦しめてきた。その手術から復帰した河内は、12年に28試合に登板、13年は21試合連続無失点を記録し、左の中継ぎとして機能した。


――肩の関節唇の損傷は投手にとって致命傷です。

 僕の場合ははがれてめくれ上がって、傷ついている状態でした。それに加えて腱板も部分的に切れていたので、手術後も可動域が戻ることはありませんでした。左手は耳の高さまで上げるのが精いっぱい。だから、フォームもサイド気味に落としていたのではなくて、そこまでしか上がらなかっただけです。可動域が制限された中でやっていくしかありませんでしたが、それがすごくきつかったです。腕を振るときにしなりが出せないので、左腕という一本の棒で投げている感じでした。

――手術しても思うような回復は得られなかった。

 手術前は小指、薬指の2本が常にしびれている状況でした。日常生活にも支障があって、そこは改善されたので、手術して良かったと思うようにしているんですけどね。

――ただ、ピッチングスタイルの変更を余儀なくされました。

 手術したらまたスピードが戻るんじゃないかという期待があったんですけど、そううまくいくものじゃありませんでした(苦笑)。それが分かったとき、自分のこだわりを捨てられたことで復帰できたのではないかと思います。手術後は投げるボールが走っている感覚を1度も得られなかったので。球がいかないならタイミングをずらそうとか、インステップにしようとか、左打者1人を打ち取ることに重点を置いてできたのが良かったんだと思います。自分のこだわりを求めていたらそのままやめるしかなかったでしょうね。

――リハビリは過酷を極めたと思います。

 そうですね。それをあきらめずにできたことが今後の人生につながってくると期待しています。あのリハビリに耐えて、1軍のマウンドに戻れたことは、16年のプロ野球人生で唯一、誇りに思うことです。

――なぜ、あきらめずに乗り越えられたのでしょうか。

 まず、他球団だったらクビだったと思うんですよ。4年間も一軍で投げていないピッチャーで、年齢も手術が27歳のときだったので、30歳が絡んでの4年です。普通待ってくれませんよね。毎年、入ってくる人がいて、やめなくてはいけない人がいる厳しい世界。ダメな選手は戦力外で当然です。だから、できた理由の一番は球団が長い目で見てくれたから。それによって、僕も意地というか、何にも形を残せないまま終わるのだけはイヤだという気持ちになりました。投げる姿で球団に報いたかったんです。

――周囲の厚いサポートもありました。

 3軍のスタッフとは「何とかもう一度マウンドに」を合言葉に毎日、いろんな意見を出し合いながらやってきました。家族もそうです。嫁と付き合いだしたのは手術する直前。僕が投げているところを見たこともなく、結婚して仕事も辞めてずっと支えてくれました。そういう人たちに投げているところを見せたい思いだけだったので、どんなフォームでも、どんな球でも良かったんです。球速が100キロでも良かった。究極はナックルを習得してでも戻ってやるっていう気持ちでした。だから、球団から契約を結ばないと言われて、あっさりとやめると決められた一方で、自分から「やめる」という言葉は言いたくなかったという部分もあります。

――復帰後の4年で75試合に登板。2勝2敗10ホールドの成績を残したことは、大きな喜びではないですか。

 まず、11年に2軍で復帰できたとき(5月27日、対ソフトバンク/マツダ広島)、それまでやってきた思いがすごく出ました。その翌年に1軍で投げたとき、そのマウンドの素晴らしさを感じましたね。1軍のマウンドで1軍の打者を打ち取ったときの気持ちはプロ野球選手として特別なもので、一番の幸せです。数は少ないですけど、復帰して1軍の勝利に貢献できたことがうれしいですね。


◆イメージと現実の乖離

 1999年秋に行われたドラフト会議、河内貴哉は3球団から1位指名を受けた。クジを引き当てたのは広島の達川晃豊監督(光男、当時)。ゲン担ぎにポケットに忍ばせたタバコのラッキーストライクを顔の前に掲げて喜びを表現した達川監督の姿は、ドラフト史に残る名シーンとなった。150キロ超えを誇る大型左腕は、それほど高い評価と注目を得てプロの世界に飛び込んだ。


――国学院久我山高時代、プロ野球はどのような位置付けだったのでしょうか?

 実際は、高校3年の夏くらいまでは大学に行くかプロに行くかで迷っていました。中学生のころは甲子園より東京六大学で野球をやりたいというあこがれがあって、高校を選ぶときも野球ばかりではなく、進学を考えた選択をしたつもりです。だからプロよりも六大学のほうがより身近な夢でした。そんなところに、とんでもなく上の土俵からオファーが来たっていう感じです。

――高い評価に戸惑いがあった?

 僕がドラフトにかかる前年は、松坂さん(大輔、現ソフトバンク)が指名された年です。松坂さんがいた横浜高とは練習試合で戦ったこともあったんですが、あの球を目の当たりにして、プロ入り後の活躍を見ながら、こういう人がドラフト1位で競合されるんだなって思っていました。だから、僕が3球団から1位指名されるような状況になるとは予想外でしたね。

――近鉄、中日、広島から1位指名を受けました。

 ドラフト前、マスコミから「意中の球団はどこ?」としつこく聞かれて、東京から近い中日の名前を挙げたのですが、軽い気持ちで口にしたことが一斉に報じられて、メディアの力のすごさを思い知らされました。実際はどの球団でも良かったというのが本心です。クジを引いた達川さんがラッキーストライクを出して喜んでくれたことが印象に残っています。

――背番号「24」を着けることになりました。

 カープの「24」と言えば大野(豊)さんですからね。40歳を過ぎても活躍された偉大なピッチャーです。入団したてのころもいつも気にかけてくださいましたし、10年から3年間はコーチを務められていたので、よりお世話になりました。手術後に育成選手になったときに「124」を着けて、12年に支配下に戻ったときも球団は「24」を用意してくれたんですが、「僕がまた着けてもいいのかな」という気持ちだったことを覚えています。

――この16年間と入団時に想像していたものとを比べて、どのように評価しますか?

 まあ思うようにはいかなかったですね(苦笑)。左肩を手術する以前にしても、フォームがまったく固まりませんでした。いろいろな方にアドバイスをいただける環境で、それを受け入れたらどんどん良くなると思って、全部を自分のものにしようとしていたんですが、それがうまくいきませんでした。アドバイスを受け入れる以前に、自分を持てていなかった。自分の形がないままだったので、そのうち投げ方が分からなくなってしまいました。そこからフォームに苦しんで、悪いフォームのまま投げていたことが肩の故障につながったんだと思います。もう少し、自分に自信を持ってやれていれば違ったんじゃないですかね。振り返ると入ってきたときに思い描いていたものとは、かけ離れたプロ野球人生になりました。

――キャリアハイの成績を残したのが5年目の04年。23試合に先発して8勝9敗でした。

 その年も調子の波が大きかったですよね。調子が良いときは形になりましたけど、悪いときはとことん打たれてしまうんです。だから負け越していますし、防御率も5点台(5.72)です。その課題として、安定した形を強く追い求めるようになりました。もともとコントロールの良いピッチャーではないのに、細かいコントロールが必要だと思うようになって、フォームが縮こまって球がどんどんいかなくなって、また悩む(苦笑)。とにかく常に悩んでいたんですよ。1年目くらいですかね、何にも考えずにガムシャラに投げられたのは。

――手術前の06年にもスリークオーター気味のフォームを試みています。

 投げ方が本当に分からなくなっていた時期で、少し腕を下げたら感覚が良くなったんです。対左にも有効でしたし、コーチとも話し合ってやったことを覚えています。苦し紛れで始めたことではありませんが、腕を下ろしてボールがさらにいかなくなったのが実際のところなので、葛藤がすごくありました。でも、そういうことも含めて、手術する前は野球のことで悩めていたので、すごく幸せだったんだと思いますね。手術後は投げることが当たり前ではなくなって、体のことで悩むようになりました。野球で悩めることは楽しいことだと気付きましたね。


◆ラストシーンは同級生との対決

 15年4月26日の本拠地・阪神戦。2点を先制された6回、なお2死満塁のピンチで救援のマウンドに上がった。1人目の鳥谷敬に対し、カウント2−2から投じたスライダーは、走者一掃の三塁打に。「左を抑えるため」の宝刀を見事に弾き返された。その後、ゴメスに適時二塁打を浴びて失点し、福留孝介を一ゴロに抑え、イニングを終えたところでお役御免。これが最後の1軍舞台となった。


――最後のマウンドに悔しさはありませんか?

 あの試合が最後になるとは、登板後は思っていませんでしたが、抑えて最後というよりは打たれて散ったっていうか……。いまから思うと、同級生の鳥谷に息の根を止められてしまいましたね。

――左中間への飛球でしたが、2死満塁で前進守備を敷いていなければ、センターの丸佳浩選手が捕れた打球に見えました。

 あれは完全にやられました。フォアボールもダメな場面だったので、ストライクゾーンで勝負にいった結果、きれいに弾き返されてフェンス際まで飛ばされたんで。鳥谷とは深くしゃべったことはないんですけど、東京のシニア時代から知っている存在です。聖望学園高でも甲子園に行って、東京六大学の早稲田で有名になって阪神に入り、球界を代表するショートになりました。同級生ですけど尊敬できる選手で、最後に対戦できて良い思い出になりましたね。

――広島で過ごした16年はどのようなものでしたか。

 縁もゆかりもない広島で16年プロ野球選手をやって、この正月も実家のある横浜から広島に向かうときに“帰る”という気持ちになっているんですよ。東京は小1から高3までだったので、実際に16年住んだ広島が一番長くいるところになりました。広島っていいところだと思いますよ。街は大き過ぎず、小さ過ぎず、自然があって、食べ物もおいしい。本当に広島が好きになりました。それも応援してくださった皆さんがいたからです。16年で16勝しかできず、球団やファンの方々の期待には応えられませんでしたが、自分の中には出し切れた思いがすごくあります。手術してからの経験では人間的に大きく成長させてもらいました。引退して、これからの人生のほうが長いですけど、16年を宝物に過ごしていけると思います。


◆プロフィール:河内貴哉(かわうち たかや)
 1982年1月6日生まれ。京都府出身。左投左打。188センチ、94キロ。国学院久我山高から00年ドラフト1位で広島入団。入団1年目、巨人戦初先発で初勝利を挙げた。04年には自己最多の8勝を挙げ、オールスターに出場。以降は左肩痛に苦しみ、08年に左肩関節唇と腱板の再建手術を受けた。10年からは育成契約としてリハビリを継続。12年に支配下登録され、その年一軍復帰、28試合に登板した。13年はリリーフで21試合連続無失点を記録。15年限りで現役引退し、球団広報として第2の人生を歩む。


☆「自分を持っていないと、いくら教えられてもダメ」。河内さんは、根が真面目なんでしょうね。だから、言われたことを全て受け入れようとした。その結果、投げ方が分からなくなって、肩を痛めて。でもそれも自分だから、と、それさえも受け入れた。だから肩を痛めても、復活できたんだと思います。


☆復活してからも、肩の痛みと戦ってたんですね。そして、過去の自分を捨て、どうやったらタイミングを外せるか、打ち取れるか、工夫に工夫を重ねた。2013年頃の河内さんはほんと、左バッターには全く打たれる気がしませんでした。




☆それにしても、本当にスーツが似合うんですよ。


(写真)


◇元広島・河内貴哉、スーツになってもカープ愛 球団広報で第二の人生 デイリースポーツ 1月2日 6時59分配信

 「第二の人生、プレーボール!」

 だれもが大きな夢と希望を胸に抱いて飛び込んだプロの世界だ。十分にやり尽くしたと納得してユニホームを脱ぐ選手。野球への未練を断ち切るのに長い時間を要する選手。そんな彼らの第二の人生へ。エールの思いを込めてプレーボール!

 この秋、マツダスタジアムで行われた契約更改交渉。見慣れないスーツ姿に、選手の間で笑顔が広がった。誰からも愛された現役時代そのままに、広島・河内貴哉投手(33)が球団広報としての人生をスタートさせた。

 「長い間、カープにお世話になった。悔いはない」

 99年度ドラフト1位。3球団が競合した本格派左腕の野球人生は故障との闘いだった。08年に左肩関節唇および腱板(けんばん)部の修復手術を受け、育成選手に。実戦復帰まで4年を要した。

 マツダスタジアムで投げたいという思いが支えだった。当時の沢崎3軍コーチが、マウンドからスコアボードを撮影した写真を2軍のロッカーに貼ってくれた。「このマウンドに立ちたいと思ったから頑張れた」。09年に結婚したまどか夫人にも勇姿を見せたかった。11年5月27日、ウエスタン・ソフトバンク戦で復帰し、初めてマウンドを踏んだ。

 「球団には本当に感謝しています。今は、入団したときと同じような新鮮な気持ちです」。これからは裏方としてチームを支えていく。


☆河内さんのような役割のピッチャーは、本当に重要。古くは初優勝時の渡辺、また清川など、ここぞという時の左の中継ぎは、必ず必要になります。


☆河内さんが抜け、心配だった左の中継ぎ陣ですが、ここへ来て球団も、ようやく左ピッチャーを獲るようになりました。河内さんのように、左バッターは完璧に抑える、という左の中継ぎ陣になってほしいところ。




☆さて、選手としての野球人生は幕を閉じましたが、これからの人生も、まだまだ長い。縁あって引き続きカープに携わる仕事に就いた、河内さん。これからもカープのために、頑張って下さい。よろしくお願いします。


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source : K.Oのカープ・ブログ。