ほとんどの人が学校で正岡子規のことをチラリと聞いて知っていると思う。
彼は1867年10月14日に私の隣県の愛媛県出身、
残念ながら私は四国出身だが愛媛県人は大嫌いである。
彼は俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、
明治時代を代表する文学者の一人であった。
結局彼はわずか34歳に亡くなる事になり、
死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
彼の作品では……
・柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
・松山や秋より高き天主閣
・春や昔十五万石の城下哉
・牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
・山吹も菜の花も咲く小庭哉
・をとゝひのへちまの水も取らざりき
・風呂敷をほどけば柿のころげけり
・柿くふも今年ばかりと思ひけり
・紫の蒲團に坐る春日かな
・鶏頭の十四五本もありぬべし
・赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
このようなものがある。
ただ今回に彼を取り上げたのは
この正岡子規という男性は日本の野球界になくてはならない存在。
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、
1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。
ポジションは捕手だったそうだ。
彼は「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」
「ショートストップ」などの外来語に対して、
「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」、
「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」
という翻訳案を創作して提示したのである。
要は日本語で表記する野球用語は彼が作っていたとされる。
また「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと
野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、
文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。
これだけの人物がわずか34歳にて亡くなるとは残念。
こんな歌人、俳人が野球殿堂入りするとは
彼が受賞するまで知る由もなかった。
彼の生きていた時代は結核は現在のガンと同じで不治の病、
今の時代に生まれていれば彼の作品を
もっともっと沢山楽しめたのかもしれないな。
土佐では坂本龍馬、伊予では正岡子規、かなり県民性が理解できると思う。
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source : 梅造イズム